『迷路の旅人』倉橋由美子 著

『わたしのなかのかれへ』に続いて出された、倉橋由美子の第2エッセイ集。

名前が某魔法少女な子どもたちの育児の合間を縫って書かれた、主に文学についての文章たちである。

 

 

倉橋さんの文章に触れようと購入したため、「玉突き台の上の文学――John UpdikeのCouplesについて」や、「評伝的解説――島尾敏雄」などはさらっと流してしまった。アップダイクの文章は、アップダイクを読んだ後に読み返そう。島尾(以下同文)。埴谷(以下同文)。

 

「沖縄に行った話」は、真っ先に読んだ。

普通の食べ物ということなら、例えば沖縄そばがある。(中略)澄んだスープに蒸し豚がはいっている。この豚は豚であることをほとんど感じさせないもので、ほとんど味も匂いもないのが本当の美味を感じさせる。こういう洗練は、豚に関してはこれにまさるものを知らない。

本当かな?

今まで暴言しか吐かれたことないよ?

 

一番好きだなあと思ったのは「やさしさについて」。

「やさしさ」という「もっとも女性的な」「美徳に恵まれていることにかけては誰にもひけをとらない」(らしい)やさしいやさしい倉橋さんが、「ノー」を使わない「やさしさ」について書いた、2段組みにして6ページ弱のやさしいエッセイである。

何と言っても、オチが素敵。やさしい。

 

古書店で手に入れたこの本はしみが多いので、そのうち電子書籍版を購入する予定。

honto.jp

とてつもなく美しいものに出会ったとき、私はふわっと宙に浮く。

普段世俗的なことをして時間に縛られているこの身体から魂が解放され、普遍的で時間を持たないものの集まるところへ飛んでいく。

そこでは「私」は存在しなくなる。

消えてしまえる喜び。

 

映画を観よう観ようとは思っていても、レンタルショップカードの期限が切れて放置していたり、映画館まで行く気力がなかったりしていた。

でも、今日はすべての時間を私の自由にできるということで数ヵ月ぶりに映画を観てきた。

「アンジェリカの微笑み」。

なんとなく、なんとなくだけれども、イザクは時間から常に解放されていた珍しい人だったのではないだろうか。

誰も彼の過去を知らない。彼の内部で起こっていることを知らない。彼がこの後とる行動を知らない。スクリーン越しに彼の一挙一動を眺めている私たちでさえ。(館で写真を撮り終えた後も、小鳥が死んでしまった後も、彼は突発的に行動しているように思えた)

機械は退屈だ、と鋤を振るう農夫を撮る。デジタルではなく、アナログなカメラを用い、薬品で現像する。下宿先にはそもそも電話がない。機械は劣化が早い。それにアップデートも早い。とても時間的なものだ。

だからこそ、アンジェリカは彼に微笑みかけたのではないだろうかと私は思う。時間的なものに囚われず、普遍的で魂を重視していたイザクだったから。

でも、時間から解放されている人間は、時間の流れるこの世界では生き延びることができないのだ。