セルゲイ・ロズニツァ『粛清裁判』『アウステルリッツ』

社会主義について書かれた本を主体的に紐解いたことが一度もないまま、イメージフォーラムで上映されている『粛清裁判』の回へ私は急いだ。新型コロナウイルスを警戒し、数ヶ月ぶりの電車では極力人混みを避けられるよう車両を選択し、渋谷から表参道までの道程でも人を避けながら歩いているのに、観に行く映画は「群衆」

「粛清裁判会場、ご案内中です」という物騒な声に導かれ、地下へ降りる。

 

『粛清裁判』

正直なところ『アウステルリッツ』だけが観られればまあ良しと思っていたので(我が愛するゼーバルト!)、『粛清裁判』の背景も何も知らず、私は傍聴人たちと同じように席についた。なんとなく「社会主義ってよくなさそうなもの、ソ連ってなんだかこわそう」くらいの義務教育止まりの知識と印象しか持ち合わせていなかった私は、罪を告白する技術者のことを「せいぎのみかた」的に観ていた。時折挟み込まれる過激な群衆を気持ち悪いと思いながら。f:id:kasumisoudemo:20201209232429j:image

「でもね、全部全部でっちあげの裁判だったんです」と、上映が終わり次の『アウステルリッツ』開演を待ちながら開いたパンフレットに打ち明けられ、仕事終わりで少しうとうとしていた頭もさすがに覚醒。スターリンってそこまでしていたのか……!プロパガンダ映画のための映像をこういうふうに使うやり方もあるんですね。スターリンや当時の社会主義者の人々の考えが全然掴めていなかったのですが、パンフレットに掲載されている沼野充義×池田嘉郎対談「日本を代表するロシア文学者と気鋭の歴史家が語るロズニツァ作品」にて池田氏

基本的に彼らの世界観として、自分たちソヴィエト政権は労働者や農民たちなど虐げられた民衆の代表であって、その点、技師とは基本的には社会の上層部の代表であり、そうした人々は社会的な階級の在り方としてすでに犯罪を犯している、間違っているのだ、貧しい人たちの上に乗って搾取して生きてきたのだと考え

ていたと語ってます。なるほど、だから技師が命まで狙われていたのか。四方田犬彦氏の同パンフレット内「アーカイヴの病」によると

彼らは実際の裁判が終了した後、日を改めて映画撮影のために同じ陳述を反復させられた

とのこと。今までフィクション映画など、「娯楽」という側面からしか映画を観てこなかった私は、「プロパガンダ映画」という言葉は知っていてもその実態に触れたことはなかった。心のどこかで「そんなものを観て心や体を動かされる人間なんているもんか」と思っていた。甘かった。

様々な方法で「正しさ」を刷り込まれ続けると、人は「正しさ」のために行動するようになる。外からは「正しくない」と思ったり指摘できたりしても、内側にいる人にとってはその「正しさ」こそが「正しい」んですよね。

 

アウステルリッツ

ざわざわと人の気配が立ち込める中、シャッター音がやたらと耳に障る。撮っているものがはっきりとわかるシーンと、そうではないシーン。神妙な顔でガイド機械に耳を傾ける、あらゆる年齢の人々。「Arbeit macht frei」(働けば自由になる)の門の前で記念撮影しているシーンが最初の違和感だった。どうしてその文字と自分の姿を一枚の写真の中におさめようと思えるんだろう?強制収容された人々にとって、この文字が掲げられた門の中に入るということが一体何を示すのか、理解しているのか?「ダークツーリズム」という言葉が頭を掠めながら、私は「ああ、この監督は収容所に来る人々を皮肉っているんだ」と私は他人事のように考えた。施設内で大きいペットボトルから水をがふがふ飲む人々、拷問のために使用された棒の前で磔の真似をする男性……最初は神妙な顔だと思っていたその顔さえも、暑さと退屈でしかめられた顔に見えてくる。えーこれがずっと続くのかー、なんだか嫌な気分になっちゃうなー、こんなの犠牲者の歴史を見る「正しい」姿勢じゃないよーと思わず目線を足元にうつす。その時、数席隣に座った人の鼾が耳に入る。横目で窺うと、船を漕いでいた。……もしかして、これを観に来ている私達も映像内の観光客と一緒なんじゃないか?強制収容所という鏡にうつった私達の姿、それに嫌悪感を抱いていただけではないのか?セルゲイ・ロズニツァって今日初めて観たけど、かなりの皮肉家なのかな?

後半からは観光ガイドの説明が時折混ざり、今人々が何を見てそのような表情になっているのかが少し掴めるようになる。そして私はその場に行ってみたいと思った。沖縄生まれということもあって、平和の礎やひめゆりの塔など、沖縄戦に関わる場所へ足を運び、知識を得てきたが、沖縄以外のそういった場所に足を向けたことはない。「戦争」と言われれば沖縄戦を思い浮かべてきた、それだけしか知らなかった。もっと様々な場所へ足を運んで、もっと様々な知識を吸収し、もっと様々なことについて考えたい。自らの意思で足を運んで歴史を見つめることを外野にとやかく言われる筋合いはない(いや、それでもさすがに拷問のポーズを真似して笑って写真を撮るのはいかがなものかと思うけれども)。製作者側からの解説がないからこそ、様々な解釈ができて興味深いドキュメンタリーだ。また数年後に観たら違うことを考えるのかも。

 

 

 

「正しさ」について考える二作品だった。自分はどういったことを「正しい」と感じてしまうのか、それはなぜか、それは本当に「正しい」のかと考え始めるきっかけってなんだろう、他の人が「正しい」と言っていて自分もそう考えて育ったときに「正しさ」について考えることは果たして可能なのだろうか。

軽々しく誰かを批判することはとても恐ろしい、私が正しいとは限らないから。でも無批判であることも恐ろしい、無言は肯定を示していると受け取られてしまうから。Q.じゃあどうすればいいんだろう? 今の私のA.少しでも違う角度から物事を見ることができるようにするため、幅広く物事を知る努力を怠らないこと。今回をきっかけに、ソ連のこと、社会主義のこと、ロシアのことについて知っていきたい。

国葬』を観たらまた違う視線も得られるのかも。観たいな〜!配信してくれないかな〜!